小田原のみかん屋の始まりは明治時代まで遡ります。電車はなく汽車もまだ小田原までしか来なかった頃、天秤棒にみかんをぶら下げて、肩にこぶを作りながら売り歩いたのがその始まりでした。
大正時代に、それぞれ地元で商売をしていた3人が集まり、小田原と早川の営業所でみかんの販売を展開しました。それが当社の事業の始まりです。
その後、昭和7年(1932年)、みかん農家は神奈川県柑橘商組合としてまとまります。結成3年目には一代目井上仙蔵が組合長になり、熱海・湯河原・小田原・下曽我などいくつもの支部をまとめました。
神奈川県柑橘商組合の発展とともに、みかんの収穫量は右肩上がりに増えていきました。組合に神奈川県の業者が95%参加する頃には、みかん屋の井上も大きな工場と選果機を持つようになり、そのみかん畑も東京ドーム7個分の広さになっていました。
戦後はみかんが大人気で、昭和30年代は一大ブームになりました。みかん農家になればお屋敷が建つと言われたほどで、その後もみかんの収穫量は昭和50年(1975年)まで増え続けました。
当社から全国に広まった商品が2つあります。1つは昭和30年(1955年)に開発された冷凍みかん。そしてもう1つはオレンジ色のネットに入った網入りみかんです。
小田原はもともと漁業の町でした。昭和7年(1932年)、当時の社長は地元の漁網屋さんから漁網(ぎょもう)をもらい受け、みかんを入れるネットとして使うことを思いつきました。
オレンジ色のネットに入ったみかんは、その見た目の分かりやすさと持ち運びやすさから次第に浸透し、今では全国の小売店で、みかんだけでなくネット入りの野菜や果物を見かけられるようになりました。小田原が漁業の町だったからこそ生まれた商品でした。
株式会社井上は、缶詰やジュースになるみかんも取り扱っています。その始まりは戦前まで遡ります。当時、当社は小田原食品と国府津食品という2つの子会社を立ち上げ、自社で缶詰の製造を行っていました。
戦時中にこの2か所の工場は神奈川食品株式会社として、神奈川県下の食品会社と一緒に、ひとつの会社に統合されました。
神奈川食品株式会社は戦後になくなり、缶詰を自社製造することはなくなりましたが、のちに後継となる会社が立ち上がりました。現在当社では缶詰やジュースの原料となるみかんをそちらに出荷しています。
株式会社井上は神奈川県だけでなく各産地のみかんを扱っています。昭和22年(1947年)には静岡県清水市に株式会社井上清水営業所、昭和45年(1970年)には長崎と鹿児島に九州青果株式会社を立ち上げました。これらは兄弟会社として、長い間支えあって営業してきました。
現在は神奈川県の事業所だけとなりましたが、各産地との繋がりは今もなお続いています。
駅売店への販売の歴史は冷凍みかんの歴史でもあります。
大正時代の頃、株式会社井上はお弁当屋さんにみかんを卸していました。昭和7年(1932年)、それらのお弁当屋さんが鉄道弘済会に移管された時から、駅のホームや売店にみかんを卸すようになりました。
そんな中、冷凍みかんは昭和30年(1955年)に生まれました。冬だけでなく夏もみかんを販売できないかと悩み、鉄道弘済会との共同開発で製造されました。冷凍みかんの凍結には大洋漁業株式会社(現・マルハニチロ株式会社)のまぐろの凍結技術が応用され、日本で初めて小田原駅で販売されました。漁業の町・小田原ならではのアイデアがここでも活かされました。
アイスクリームや自動販売機がなかった時代だったので、列車の旅のお供に大人気。売り子さんが首からカゴをぶら下げて、車窓から手を出すお客さんに手売りする様はさながら夏の風物詩でした。
アイスクリームや缶ジュースなどの開発により、冷凍みかんを店舗で目にする機会は減りましたが、今では学校給食の定番のメニューとして全国の子供たちに喜んでいただいています。
子供たちが大人になって思い出を振り返った時に、楽しかった学校給食の記憶とともに思い出していただけるよう、私たちは日々その思いで冷凍みかんを製造しています。
長い長い時代の流れの中で、株式会社井上は様々な挑戦をしてきました。その中で会社の始まりからずっと変わらないことは、みかんとともに生きること、そしてみかんへのこだわりです。
これからもお客様、生産者の方々、そして子供たちが笑顔になれるような、みかん業界を牽引するような会社を目指してまいります。
末永く株式会社井上をよろしくお願いいたします。